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還暦を過ぎて気づいた、ふる里は人の記憶の中にある

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田舎の暮らし

変わってしまった景色と、変わらない記憶

昔は、当たり前のように隣に親戚がいました。
用事がなくても声をかけ合い、行き来がありました。
それが特別なことだとは、当時は思っていなかったのです。

今は、もう誰もいません。
幼なじみもみんな札幌へ行き、この辺りに同世代はほとんど残っていません。
家に帰ってきても、どこか違和感があります。
静かすぎるのです。

それでも不思議なことに、
あの頃の人たちは、今も自分の中には生きています。
声も、笑い方も、冬の匂いも、景色と一緒に残っています。

いつの間にか、還暦を過ぎていた

気がつけば、還暦を過ぎていました。
若い頃は先のことばかり考えていたのに、
今は自然と、昔のことを思い出す時間が増えました。

あの頃は賑やかだった。
雪の中でも人の気配があった。
今は静かで、夜になると余計にそれを感じます。

寂しさなのか、懐かしさなのか、
正直、自分でもよく分かりません。
ただ、思い出が多すぎて、簡単には割り切れないのです。

秋になると、田んぼには稲架掛けの風景が広がっていた。
刈り取った稲を木に掛け、風と太陽で乾かす。今では機械で済んでしまう作業だが、あの頃は人の手が当たり前だった。

特に覚えているのは、日陰に入った時の寒さだ。
作業して汗をかいていても、稲架の影に入ると一気に体が冷える。秋の空気はもう冬に近く、陽の当たる場所と日陰の差がはっきりしていた。

子ども心にも、「もうすぐ冬が来る」と分かった。
手は冷たく、鼻の奥がツンとする。けれど不思議と、その時間が嫌ではなかった。家族や近所の人が一緒に動き、言葉は少なくても、同じ季節を生きている感覚があったからだ。

今、同じ場所に立っても、稲架掛けの風景はほとんど残っていない。
あの寒さを思い出すたびに、風景だけでなく、人の気配や時間までもが遠くなったことを感じる。

それでも、ここが「ふる里」だと思える理由

人は減りました。
景色も、暮らし方も変わりました。
それでも、ここには確かに自分の人生があります。

誰かがいなくなっても、
記憶が消えるわけではありません。
人が住まなくなっても、
思い出まで無くなるわけではないのです。

今さらかもしれませんが、
ようやく分かりました。
ふる里とは、「人がいる場所」だけではなく、
人が生きてきた記憶が残る場所なのだと。

この静かな場所で、
そんなことを思いながら、今日も過ごしています。

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