
北海道、岩内郡共和町、という田舎の小学校に転任してきた校長先生。
50年ぶりにふと思い出した。あの校長先生の言葉。全校生徒が30人程という小さな小学校での出来事です。当時良く分からなかったけど、今になってその意味がじわじわと心に染みてきます。それは、「諦めずに行動する事の大切さ」「いつ来るか分からない自然災害への備え」でした。
当時自分が2年生だったと思います。その先生が大変ユニークな方で、なにも無い土地だから、飛行場を作ろう、とか言い出す方でした。田中角栄総理とダブって見えていたのかも知れません。あるとき学校の敷地を突然業者さんが造成を始始め「何ができるのだろうと」皆思ってました。それから暫くして、「知事さんが、西瓜の視察でお見えになる、皆でプールを作ってもらう様に、お願いしょう」という話でした。今だから「らいでん、西瓜」の視察でお見えになる、当時、出来たばかりの「らいでん西瓜」が名前が知れて来て、町おこしにも一役かって、産業の見本になる頃、でした。それを視察にいらっしゃる、らしいところを、捕まえて話を聞いてもらう、らしい?当時小学生の私には、そんな事はわからず、ただ緊張してました。知事さんに西瓜を渡す役立ったからです。ただ窮屈なセレモニーが終わり、「お願いします」と、全校生徒でお願いしました。
それから、何日かして、お願いが通じたことを知りました。
しかし、場所は整地したあそこではなく、近くのお寺の敷地でした。小さな学校にだけ作るのではなく、大勢が使える場所に作る、という回答だったそうです。それでも、自転車で行ける範囲でしたので、とても嬉しかった事を、覚えています。同時に駄目だと諦めないで、何らかの、行動が必要な事を、教えてくれたきがします。勿論当時はそんな事を思いもせず、ただ喜んでただけです。今ならわかる気がします。だけど、流石に、空港は無理でしょう?。
西瓜で町おこしした〝親父達”も凄いよ!
今では、色々な産地も出て来ているなかで、まだ続いて居る、当時15人程の仲間は減ったけれど、「西瓜」は作り続けられてるよ。60年経ったいまだから、やっとわかる事がある。どこまで馬鹿なのだろう?こんなバカ息子に何を言ってもらえるのだろう?呆れて何もいってくれないのか?
奇想天外だと思っていた校長、
校長は”へそ”が二つありましたね?戦争でおなかに銃弾を受けへその隣にもう一つ穴があったのを覚えてます。金魚を丸のみしたことも、戦争体験だったのでしょう。ただただ珍しくお話を聞いて居ました。戦争は幸いなことにに、あれからも、これからも無いとおもいます。
どちらかというと”自然災害”の方が怖い!
突然くるから、なにも出来ずにいるかもしれません。最低の水、食料の備蓄しておくのか、そのまま受け入れるのか?突然では,選択肢などもなく、何とか生き延びようと思うはずです。後者の選択など在りません。キャンプのような生活が毎日、訪れます。田舎暮らしの私でも、最低のライフラインは確保しようと、するでしょう。」水、食料の確保、スマホの充電も、今では必須です。私のブログではその時役立つ情報を、発信してます。SNSでも発信してます。良ければご覧ください。
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