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母の強さと父の思い出:北海道共和町で育った日

北海道の小さな町で暮らしています。
冬の暮らしや仕事のこと、日々感じた不安や出来事を、正直に書いています。
同じように地方で暮らしている方や、これからの働き方に悩んでいる方の参考になれば嬉しいです

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田舎の暮らし

共和町と言う、あまり知られていない、田舎

人口6千人にも満たない小さな町ですが、ここには都会では味わえない静けさがあります。
北海道の共和町で生まれ育った私は、かつてスイカ農家の息子でした。今でこそ小さな町ですが、子どもの頃は毎日が忙しく、それでも家族そろって笑っていた記憶があります。父は共和のスイカを広めようと懸命に働き、家の周りはいつも元気な声と笑いで満ちていました。

突然やってきた、不幸

しかし、昭和50年、そんな幸せな日々は突然終わりを迎えました。父が急に倒れ、そのまま帰らぬ人となったのです。
当時、まだ幼かった私は「まさか父が亡くなるなんて」と信じられず、母や家族と一緒に何日も泣き明かしました。雪深い中、町内の人たちが父を担架で運んでくれた光景はいまも忘れられません。

強かった、母母

誰もが「母は実家へ帰るだろう」と思っていました。車の免許もなく、農作業の経験も少なかった母が、ひとりでこの土地に残るとは誰も考えていなかったのです。
けれど、母は迷わずここに残り、農家を続ける道を選びました。あのときの母の決断こそ、家族を支えた原点だったのだと思います。
女手ひとつで畑を守り、私たち兄弟を育て上げた母。その姿は今も忘れられません。

その後、

私は成長して農家を継ぎましたが、正直に言えば「立派な後継ぎ」とは言えません。
ギャンブルにのめりこみ、家庭を失い、たくさんの人に迷惑をかけてきました。母にどれほど心配をかけたか、考えるたび胸が痛みます。
それでも、母は何も責めず、ただ静かに見守ってくれていました。今になってようやく、その強さと優しさの意味が分かります。

これから、出来る恩返し

今、私は再びこの実家で暮らしています。
風が吹くたびに父の声が聞こえるようで、母の畑を眺めると、あの頃の笑顔が浮かびます。
過去は変えられませんが、これからは母のように前を向いて生きていきたい。
たとえ少しずつでも、今の自分にできることを続けていこうと思っています。

還暦過ぎてしまいましたが

母は元気でいます。バカな息子は、この土地が大好きで、変わらずここで暮らしてます。

楽をさせる事は出来ませんでした。母以外の身内にも、迷惑ばかりかけています。

ここが昔のように、活気を取り戻せるように、暮らせたら最高ですね!過疎ながらでも、小さい時は、寂しい思いをしたことがありませんでした。移住してくれるかたなどを含めて、改めて、故郷で暮らしていけますように。それがバカ息子の希望です。

北海道新幹線の札幌延伸など、まだまだ希望が持てる町です。大好きな故郷、母が守った共和町をこれからも、守って行けるように!

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